聖書通読のすすめ

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翻訳聖書の選び方

  • 初めて聖書を手にするときは、集っている教会で読まれている翻訳を選ぶのがよいでしょう。
    たとえば、『新改訳聖書』(新改訳聖書センター)や、『新共同訳聖書』(日本聖書協会)など。
    現在、教会に集ってらっしゃらない方には、これらの翻訳をおすすめします。
  • 著作権保護期間の終了した『文語訳聖書』や『口語訳聖書』などの古い日本語訳聖書は、
    日本語の聖書」というサイトで公開されています。
  • 外国語翻訳のうち公開されているものは、「BibleGateway.com」で読むことができます。
  • なお、聖書の説明や歴史については、日本聖書協会の「聖書を知る」などをご覧ください。
    また、和訳史の概略は、Wikipediaの「日本語訳聖書」にも整理されています。
  • 通勤・通学などの移動中に通読するときは、小型の聖書をおすすめします。
    新改訳では、引照・注付きの小型版や、引照・注を省いた『バイブルmini』があります。
    新共同訳では、『バイブルキューブ』などがあります。
  • iOSやAndroidなどの携帯端末用アプリを利用したり、「聖書通読のツール」で紹介している
    コンピュータ・ソフトのデータを、自分の携帯端末等に合わせて加工して使う方法もあります。
  • 家で読むときは、聖書本文と同じページに語句解説などがある大型の聖書をおすすめします。
    新改訳では『BIBLE navi』、新共同訳では『スタディバイブル』などが出版されています。
    英語の堪能な方には『Life Application Study Bible』のKindle版(電子書籍)をおすすめします。
  • 注釈付き聖書は参考書を開く手間を省けるので便利ですが、何度も通読していくと、
    短い解説では物足りなくなることもあるかもしれません。
    そのときは「聖書通読のツール」で紹介している聖書辞典や注解書などを傍らに通読し、
    そこで学んだことや礼拝説教のメモなどを、聖書の余白にどんどん書き込んでいってください。
    年輪を重ねるように通読するうちに、“自分の注釈聖書”ができあがります。

聖書通読の骨(コツ)

  • 毎回、「主の祈り」を祈ってから読み始め、「使徒信条」を告白して終わります。
    また、「Jesus loves me」などの賛美歌を加えるのもよいでしょう。
  • わかっても、わからなくても、忙しくても、心騒ぐときにも、言い訳せずに読み進めます。
    特に最初は流し読みになっても全体を把握する感じで。
    そうして祈りつつ読み進めているうちに、聖書のことばがじんわりと心にしみわたってきます。
    ※ 一般的にも、初めて読む本は、まず全体をサラッと把握するのが肝心とされます。
      参照: M. J. Adler & C. V. Doren 『本を読む本』 講談社学術文庫 1997年
  • 一日のうち「この時間は聖書を読む」と決めて予定に組み込むと、失念・ため込みを防げます。
    たとえば、起床後の10分・就寝前の20分、通勤・通学時間、朝トイレに入っている間など。
    所要時間のぶん、テレビやネットの時間を削るのが効果的です。1か月ほどで習慣化してきます。
  • 2人3人で励まし合いながらすると、めげません。通読サークルや教会全体で取り組んだり、
    メールやSNSなどを使って「きょうは△章まで」とお互い励まし合うのもよい方法です。
  • 心に留まったところに線を引き、できればノートやメモ帳に日付を添えて書きとめます。
    (旧新約でページや冊子を分けておくと、読了後に自分だけの筆写ダイジェストバイブルになります)
    次の日に昨日のノートを読み返すと、その聖書のことばが心に残ります。
    アウトプット(書き出し)を電子化すれば、移動中に携帯端末で読み返すこともできます。
    感想などを添えてブログやSNSに公開すれば、読む人の励ましにもなると思います。
  • 数年続けた後は、文語訳や英訳など、他の訳でも通読してみると、新たな発見があります。
    また、速いペースで続けた後は、注解書を脇に一度じっくり取り組んでみるのもよいでしょう。
    古来の写本作業のように書き写したり、朗読してみるのもおすすめです。
  • ちなみに、声に出したり手で書いたり反復することは、脳の記憶の仕組みからみても合理的だそうです。
    通読表を見ながら、1週間前に読んで線を引いた箇所にサッと目を通すだけでも違います。
    自分の忘却ぶりに落胆するかもしれませんが、記憶すべき大切な情報として再び刻み込まれると思います。
  • 電車・車の移動中や家事などで手が離せないとき、また、読むのが負担なときは、“聞いて通読”
    するのもおすすめです。気づかないうちにたくさんの聖書のことばを蓄えることができます。
  • 新改訳には、『聴く聖書』という4本シリーズの朗読CDがあります。
    新約聖書」 「旧約聖書1」 「旧約聖書2」 「旧約聖書3
  • 新共同訳には、CDよりも安価な『MP3版 新共同訳聖書』があります。
    また『Bible.is』という携帯端末アプリを使うと、新約のみですが無料で聴くこともできます。
  • 英語訳聖書には、複数の俳優と効果音によるドラマ仕立ての朗読もあります。
    通読しつつ耳から英語にも慣れることができて一石二鳥です。
    翻訳の種類が多くて迷うところですが、初めて手に取るなら比較的新しい訳がおすすめで、
    たとえば、Today's New International Version (TNIV) などがあります。
    英語訳の冊子やオーディオブックは、日本でも「教文館」「CLC」「amazon」で購入できます。
    また、英語訳の多くは「BibleGateway.com」で読み聴きできます。

なぜ聖書通読か?

 聖書の正しい読み方は「身読」(embodied reading)*1)、つまり、素直に聖書のことば(みことば)に生きるという読み方です。みことばに生きるには、まず主の御前に静まり、聖書全巻*2) から語られるみことばに聴かなければなりません。聴かないでみことばに生きることはできませんし、聴かないままでクリスチャンとして歩もうとしても独りよがりの信仰になってしまいます。この状態は、あたかも服を着ずに(ガラテヤ3章27節)、一日の仕事に出かけるようなものです。*3)

*1) ハウエル「キリストは聖フランチェスコのようであった」『聖書を読む技法』 新教出版社 2007年
*2) 聖書は全体(文脈)のなかで聴くことが大切です。その日その日に出会う個々のみことばも、聖書全体に照らして読むときに、はじめて本当に意味するところが明らかになる場合が少なくありません。
*3) ちなみに、聖書が現在のように一人ひとりの手に渡るようになったのは、教会2000年の歴史のなかでも、ここ200~300年くらいのことです。グーテンベルクの活版印刷というIT革命を経て、書物が一般の人たちに普及し、識字率が向上した結果です。それまで一般の人たちが聖書にふれる機会といえば、教会の礼拝などで聖書のことばを耳にするくらいでした。現在でも、経済的な理由で識字率の高くない国や、キリスト教を禁圧する国などでは、自分の聖書を自由に読むのが難しい環境にあります。歴史や地域事情などに照らすと、日本を含む今の先進諸国は、かつてないほど聖書を読むのに恵まれた環境にあることに気づきます。平時の聖書通読の積み重ねが、聖書を禁じられた迫害時に、みことばを黙想し信仰を支えるたすけにもなると思えば、通読に臨む姿勢も自然と変わってきそうです。

 しかし他方で、キリスト者にとって聖書通読は、したいのに挫折してしまう悩みの種として根深いことも事実です。挫折の理由は様々でしょうが、通読するための方法やツールの乏しさも一因と考えます。通読は、いわば長旅にたとえることができますが、地図を持たずに行くと我が身の立ち位置を見失うように、通読表を持たずに通読することも、よほどのベテランでない限り、無謀な旅と言えます。飛行機のパイロットが必ずフライトプランを立てるように、通読にもプランナー(通読表)が必要です。

 では、そうした地図(通読表)を持ったうえで、どこに向かうのか? すなわち、なぜ聖書通読か? その目的は?
 この問いの答えは、冒頭の「みことばに生きる」に戻るのですが、みことばに生きる(目的)ために、聖書通読(手段)をするのです。みことばに生きることが、主を愛する献身の歩みだからです(参照:ヨハネ14章23節、第一ヨハネ5章3節)。それが、私たちの罪のために十字架にかかってくださった主のご愛に応えて生きる、礼拝の生涯だからです(聖書通読→みことばに生きる→主を愛する→礼拝の生涯)。
 私たちは、「生きることは礼拝、死ぬこともまた益です」(参照:ピリピ〔フィリピ〕1章21節、ダニエル6章)と告白し、主日(日曜日)に礼拝に集い、十分の一献金を献げます。それと同じように、私たちの生涯、すなわち時間も、献げたいと思うのです。祈りとみことばのために・・・。

 最後に、次の一節を引用して終わりたいと思います。
 「読むよりも実行、みことばは実践してこそ価値がある。そのとおり。けれども、みことばの不思議さは、ただ読むだけで格段の違いをもたらすのである。ただ読むだけ、と自信なさそうにうなだれることはない。ただ祈るだけという卑下も不要なように、である。祈りとみことばは、そのままでなかなか力がある」 〔下川友也『聖書通読にチャレンジしよう!』より〕