ここで語られる創世記のヤコブ物語は、彼が自分の欲望を満足させるために兄弟を陥れたこと、その自己中心的な姿勢こそが現在のイスラエルの姿に他ならないということを告げている。4節ではヤコブの格闘した相手が「御使い」であったことが明らかにされている。また、彼が「泣いた」というのは創世記の記事にはないが、これはホセアの説教的解釈である。ヤコブはさんざん自分のために働いて、自分の欲望を満足させる人生を送ってきたが、主ご自身と出会い、この方がともにいてくださったことを知ったときに始めて涙することができ、悔い改めが起こったのであった。
主はご自分の民に、自己中心的な労働ではなく、誠実と公義のある労働を守られるように求めておられる。働きを与え、1日をともにいてくださり、守ってくださるのは、主である。「働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です」(第一コリント12章6節)。
13章は、神の怒りのすさまじさが語られている。7〜8節では、主の怒りが、子を奪われた野の獣のように情け容赦ないことを語る。14節の前半は救いが語られているが、その前に、民は死のとげ、よみの針をもって懲らしめを受け、完膚なきまでに滅びを体験することになると宣言される。
しかし、そのようにして一度完全に罪における死を体験したからこそ、死から救い出され、新しい命に生きる者とされるのである。コリント書第一15章55節で、パウロはもはや、この死の力がキリストの十字架による救いの前に無力とされ敗北したことを宣言する。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」
14章では、そのようにして主に赦され贖われた民が、そのときにはもはや、カナン宗教と入り交じった信仰ではなく(8節)、ただ主のみを礼拝し、再び祝福のなかに生かされるようになると預言され、終えられている。ホセア書は、このような自分自身の体験した妻の不倫の悩み、育児の苦労に、父なる神の心中を重ね合わせ、それでも親として彼らを見捨てず、子であるイスラエルを愛し続けてくださる、父なる神へ立ち返ることを語り続ける書である。