モーセは民を呼び集めて言います。神がホレブでイスラエルと結んだ契約は、先祖たちとではなく、今生きている一人ひとりと結んだ契約である、と。ですから、一人ひとりが契約を守る責任を果たすよう、主体的に神のことばを学び、主に従っていくように勧め、信仰の自立を促します。
モーセは、40年経って再び、ホレブで神から語られた十戒を、次世代イスラエルに教えます(6〜21節)。このときのモーセは、ホレブで民に語ったときと違い、40年の旅路をとおして、十戒(または律法全体)を守ることがいかに大切であるかを実体験していました。
かつてモーセが民に十戒を語ったとき、イスラエルの民は「私たちは聞いて、行います」と応答し、神は「民がいつまでもそのような心を持ち続け、民も、子孫も、永久に幸せになるように」と民の信仰を喜ばれました(参照:27・29節)。モーセはこのときのイスラエルのように、次世代にも神のことばに純粋に応答することを求めています。神は幼子のような信仰を求めておられます。
モーセはイスラエルの民に、これから「乳と蜜の流れる国」に入ることを伝えています(3節)。カナンの地は実り豊かな地で、イスラエルは何も労せずとも、神の恵みによって満たされることが約束されています(10・11節)。しかし、「食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい」(12節)と警告します。
人は満ち足りないと神に不満をつぶやき、満足して安住してしまうと、高慢になり、主を忘れ、主を恐れなくなります。まさに「うなじのこわい民」です。
そのような豊かな地に入って、忘恩の罪を犯さないために、次のことが命じられています。
神を愛するとは、具体的には「神の命令を守ること」(第一ヨハネ5章3節)ですから、主を試みず(16節)、信頼して従っていくことなのです(17節)。
そのために、絶えずみことばを心に刻みつけ、家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも唱え、手に結びつけ、記章として額の上に置き、家の門柱と門に書き記し(6〜9節)、神のことばを生活の中心に掲げ、肌身離さず握りしめて、忘れないようにと命じています。
そして、神に従う恵みと神に背いて罪を犯すことのむなしさを、その目で見て、経験してきた大人たちが、子どもたちに、神の教えや礼拝儀式の意味をきちんと教え守らせるよう、命じられています(20〜25節)。それは、実り豊かな地で、家族が偶像礼拝から守られるために大切なことなのです。
神のことばは、イスラエルという家族のなかで守り行うように命じられています。神の教えは、家庭のなかでこそまず実践すべき教えなのです。