信徒が自分に漏らすことだけに耳を傾けている牧師は、危ない。面と向かって言えない本音は、こっそり牧師夫人や役員に漏らすからである。少なくともコリントの教会の人たちは、パウロを恐れていた。だからこそ、陰口も叩いた。面と向かって言えないことを、他人に漏らした。そういう意味で、コリントの教会の姿は、現代の私たちの教会のありのままの姿である。全員がそうではない。しかし、そういう人々が教会内にいるのである(2節)。
しかし、そのような人々に対するパウロの姿勢は、一貫している。それは、「キリストによって」という態度である。最初の1節では、「キリストの柔和と寛容をもって」と言っている。また、終わりの17節では、「主にあって」誇れと言っている。実際のところ、パウロはコリントの人々が自分に対してつぶやいていることに対して、業を煮やしていたことであろう。しかし、パウロは、自らの堪忍袋ではなく、キリストの堪忍袋によって、柔和と寛容な勧めをしている。彼らと同じ土俵で戦わない。それは、肉に従って戦うこと(3節)であり、知恵のないこと(12節)だからである。キリスト者同士が、お互いをなじったり、馬鹿にし合ったりすることで、サタン(訴える者)は、喜んでいる。訴える口実が増えるからである。
パウロの目的は、はっきりしている。「ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます」(15節)
相手を否定したり、蔑んだりするのではなく、相手の信仰成長を願い、福音宣教の働きがなされるようにパウロは努めている。人を憎むとき、蔑むとき、知らず知らずのうちに、本来の自分の使命から外れてしまうことが多いのではないだろうか。天を仰いで今日一日を歩もう。誇るなら主にあって、誇ろう。