第38日曜 IIコリント9:1-15



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 9章は献金の章である。しかし、献金という言葉は、一度しか出てこない。奉仕(1節)、贈り物(5節)、種まき(6節)、与える(7節)、義の実(9・10節)、神への感謝(12節)というように、多種多様に言い換えられている。つまり、献金というのは、お金をささげることにとどまらずに、実に豊かな性質を持っていると言える。

 献金というと、牧師信徒を問わずドキッとさせられる。それは、献金の額がその人の信仰を計る物差しのように思えてしまうからだ。しかし、パウロは、ここでそのようなことを一言も言っていない。「献金の額」ではなく、その人のささげる「喜び」が重要だという。喜びは金額に反映するが、金額は必ずしも喜びを反映しているわけではない。強制によって、また虚栄によって、金額が反映されることがある。
 そのような献金は、神からの愛を拒絶してしまう。

 献金で不思議な体験をしたことがある。神学校に入る前に、4年間サラリーマンをしていた。あるとき、月定献金として聖別しておいた2万円のうち、急な用事で5,000円を袋から抜き出したことがあった。礼拝当日、CSの奉仕が終わり、自分の部屋に戻って月定献金袋を確かめたとき、「しまった!」と思った。袋の中には15,000円しかない。私は悔い改めの祈りをした。聖別したものに手をつけた自分の愚かさを恥じた。その時である。妹が「何か郵便が届いたよ」と書留を持ってきた。以前送った懸賞の当選であった。まさかと思い、袋を開けると、なんと5,000円の現金が入っていた。すぐに、妹に事情を話し、2人で主の御名を崇めた。主は、愚かな私の悔い改めの祈りに、恵みと励ましをもって応えてくださったのである。

 私たちは、喜んで献金しよう。それは、奉仕であり、感謝であり、献身である。また、やがて収穫が得られる種まきである。また、単純な奉仕でありながらも、義の実と呼ばれるものであり、神への感謝を通して、自分自身が豊かにされていく。さらには、14節にあるように、とりなしの祈りと温かな人間関係を生み出す。これらは、すべて直接お金で買うことができないもの、主が与えてくださるものである。


【信仰告白】

[2] 使徒信条