旧約 第22週
列王記第二3章~15章

日本福音キリスト教会連合 東岩槻キリスト教会 牧師
飛田 喜功

2009年10月31日 初版

【日曜】 列王記第二3章~4章

 ヤロブアムに始まる北イスラエル王国の背信の歴史は、アハブの時代に頂点に達したと言ってよいでしょう。しかし神は、「だからイスラエル王国は駄目だ」と言ってすぐにさばかれることはされませんでした。むしろ、そのような彼らを愛し、忍耐をもって彼らが神に立ち返ることを望まれました。そのために神は、エリヤ、エリシャを送られたのです。
 列王記第二3章からは、エリヤの後継者エリシャをとおして、イスラエル王国に対して神の示されたみわざが語られます。

 3章では、イスラエルの王に対して、4章では、2人の女、すなわち貧しい預言者の妻と裕福なシュネムの女、そして預言者の仲間たちやエリシャの召使いに対して、神のみわざがあらわされました。
 一国の指導者から市井に住む名もなき市民に至るまで、偶像礼拝に走る者にも信仰篤い者にも、また、裕福な者にも貧しい者にも、地位や身分に関係なく、経済的な力にも関係なく、同じように主のみわざは示されました。それはどのような人をも神が愛しておられることのあらわれでしょう。

 それぞれの人たちは、エリシャをとおして語られる神のことばに、どう答えたでしょうか。
 イスラエルの王には、「この谷にみぞを掘れ」と水路を掘ることを命じられました。一方、預言者の妻には、「隣の人みなから、からの器を借りて来て、その器に家にあるただ一つの油つぼから油を注ぐ」ように命じられました。
 神は、それぞれの力に応じて、みことばに従うことを求められます。イスラエルの王は水路を掘ったでしょうし、預言者の妻も素直に神のみことばに従いました。エリシャの召使いも、「彼らは食べて残すだろう」という主のことばを信じました。しかし、シュネムの女の息子が死んだ場合は、これはもう人間の力ではどうすることもできません。彼女はひたすら神の力に頼りました。

 私たちも、自分の力ではどうしても乗り越えられない壁に直面したときには、神に頼り、みことばを聞き、その意味がよく分からなくてもみことばに従うことが必要だと思います。そうすれば、神がその壁を乗り越えさせてくださると思います。

【月曜】 列王記第二5章

 人はどんなに地位や名誉を得ても、苦しみや悩みの1つや2つは必ずあるものです。
 アラムの将軍ナアマンがそういう人でした。彼は主君に重んじられ、尊敬され、勇士でもありましたが、ツァラアトに苦しんでおりました。
 ここに神が用いられた人たちがおりました。一人はアラムに戦争で捕虜になって連れて行かれたイスラエルの少女、彼女はナアマンの妻に仕えておりました。もうひとつはナアマンの部下たちです。

 この少女が、イスラエルにはエリシャという預言者がいて、ご主人のツァラアトを直してくれるだろうと女主人に告げました。彼女が仕えているのは憎むべき将軍の妻の家です。本来なら、恨むことはあっても直せる人がいることを教えることはなかったでしょう。しかし、彼女はそのおかれた境遇にもかかわらず、そこで誠実に主人に仕えました。

 エリシャのもとに来たナアマンは、彼に「七たびヨルダン川で身を洗いなさい」と言われて、怒って帰ろうとしました。そのとき、彼の家来たちが、「あの預言者がむずかしいことをあなたに命じたのなら、あなたはそれをしたのではないか」と、彼の心のうちをズバリと言い当てました。ナアマンは自分の傲慢さに気づかされたのでしょう。取って返すとエリシャの言ったとおりに行いました。すると、ツァラアトは治りました。神は、異邦人であるナアマンにもみわざをあらわしてくださったのです。
 彼の部下たちは、自分の上司であるナアマンに直截に進言するだけの勇気と誠実さを持っておりました。ナアマンも、その忠告を受け入れ、悔い改める心の広さ、柔軟さを持っておりました。
 しかし、イスラエルの王とアラムの王は、ナアマンのいやしから何も学ばなかったようであります。欲にくらんだゲハジもツァラアトに冒されてしまいました。

 私たちも、そのおかれた場所で、誠実に日々の生活を送りたいと思います。そして、人の忠告を感謝して受け入れ、悔い改めることができる者になりたいと思います。そうすれば、神は私たちにもみわざをあらわしてくださると思います。

【火曜】 列王記第二6章~7章

 私たちの人生には思いもかけないことがときとして起こります。預言者の仲間が借り物の斧の頭をヨルダン川に落としたのもその一例でしょう。アラムの王のはかりごとがイスラエルの王に筒抜けになっていることもアラムの王にとってはまさかと思うことだったでしょう。
 しかし、思いがけない事態に遭遇したとき、それにどう対応するかは信仰のある人とそうでない人とでは違います。斧を誤ってヨルダン川に落とした預言者は、エリシャに助けを求めました。一方、アラムの王は自分の力に頼って、エリシャを捕らえるために大軍を派遣しました。彼にはエリシャとともにおられる神が見えませんでした。霊的な目がふさがれておりました。霊的な目がふさがれているという点ではエリシャの召使いも同じでした。イスラエルの王も、自分がサマリヤまで連れて来たのでもないアラムの軍を打って、自分の手柄のようにしようとしました。しかし、これはエリシャの反対で実現しませんでした。

 当時の戦争は、城壁を包囲して兵糧攻めにし、城内が疲弊して陥落するのを待つのが一般的な戦法でした。アラムがサマリヤを包囲したとき、悪いことに飢饉がさらに追い打ちをかけました。飢餓に苦しんだ2人の女の話が出てきますが、身の毛もよだつような凄まじい出来事です。イスラエルの王は、そこに至った責任をエリシャに転嫁しようとしました。
 しかし、それにもかかわらず、神はこのときサマリヤをアラムの手から救われました。その知らせは4人のツァラアト患者からもたらされました。彼らは病気のゆえに城内では生活することが赦されない人たちでした。社会から疎外された人たちによって救いの朗報がもたらされるとは、これも予期せぬことでしょう。
 私たちに対する救いの福音も、ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになったイエス・キリストによってもたらされました。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」のです(イザヤ53章2~3節)。
 エリシャのことばを信じなかった侍従は、救いにあずかることができませんでした。

【水曜】 列王記第二8章~9章

 南のユダ王国はダビデの血統が王位を継いでいきましたが、北のイスラエル王国では、常にクーデターによって前の王朝が倒され、次の王朝が樹立されました。王朝の交代がこのように血なまぐさい手段で行われたのは、倒された王朝の不信仰を主がさばかれた結果ですが、歴代の王朝はそのことを悟ることはありませんでした。
 私たちは日々の歩みの中に主の御手が働いていることを感じなければなりませんが、不信仰のために霊的な目や耳が塞がれている者には、主のみわざが見えないのです。

 イスラエルの王はゲハジから、かつてエリシャが死んだ子どもをよみがえらせた話を聞き、たまたま、訴えのために来たそのシュネムの女とその子を見ました。彼は女の訴えに答えましたが、おそらく、それはエリシャのみわざに感じ入ったからでしょう。しかし、彼はエリシャのみわざのなかに神を見ることはできなかったようです。
 まことの神を見ることができないのはアラムの王も同じでした。ですから彼らも暴力的な手段で王位を簒奪していきました。ベン・ハダデはその部下ハザエルによって殺され、王位を奪われました。

 ユダの王たちのなかにも信仰的堕落が忍び寄ってきました。それはアハブの家と婚姻関係を結ぶことによって起こりました。信仰が堕落したからアハブの家と婚姻関係を結んだのか、婚姻関係を結んだために堕落したのか、おそらく、その両方でしょう。彼らには目先の繁栄しか目に入りませんでした。これが将来、決定的な国の破滅に至るという自覚はありませんでした。

 アハブの子ヨラムはエフーの謀反によって殺されました。エフーはアハブの妻イゼベルも殺しました。すべては主の預言の成就によるものでした。

【木曜】 列王記第二10章~11章

 エフーはアハブの子70人も皆殺しにしました。策略を用いてバアルに仕える預言者、祭司、信者たちを皆殺しにし、バアルの石の柱を焼き、神殿を壊しました。しかし、これは彼がイスラエルの神、主に立ち返ろうとしたからではありません。アハブの影響力を抹殺し、自分の王位を確立するためだったのです。彼はユダの王アハズヤも殺しました。彼がアハブの親戚だったからです。

 一方、ユダでもクーデターが起こりました。アハズヤが死んだと見るや、その母アタルヤが王の一族をことごとく滅ぼし、自分が王の位につきました。彼女はアハブの父オムリの孫娘で、オムリがジムリを殺して王位を奪取したことをまねたのでしょう。
 ダビデの時代にも、その息子アブシャロムとダビデの間で、王位をめぐって国を二分する骨肉の争いがありました。地位を巡る骨肉の争いほど醜いものはありません。しかし、それをやめられないのが人間の罪というものでしょう。
 アハズヤの子どもたちのうちで、乳飲み子だったヨアシュだけが、アハズヤの姉妹であるエホシェバによってうまく隠されて、殺されることを免れました。おそらく、アタルヤは必死に探したでしょうが、結局、見つけることができず、赤子だからとの油断もあったのでしょう。このことが後に彼女の命取りになりました。
 ヨアシュには祭司エホヤダがついていました。彼はヨアシュに近衛兵を配して守らせ、ヨアシュが7歳になったとき、彼を王としました。アタルヤは殺され、バアルの宮も壊され、祭壇と像も打ち砕かれ、バアルの祭司も殺されました。アタルヤが死ぬと、エルサレムには平穏が戻りました。アタルヤの治世は強権政治、恐怖政治だったのでしょう。自分の欲望のために権力を手に入れた者の末路は、このようなものだということだと思います。

【金曜】 列王記第二12章~13章

 人にはよい指導者、教師が必要です。よい導き手に恵まれた人は幸いです。私たちにとって、聖書こそ、よい導き手でしょう。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光」(詩篇119篇105節)ですし、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」(第二テモテ3章16節)だからです。
 しかし、私たちは、聖書が唯一の規範とわかっていても、つい、聖書から離れ、神のみことばとはほど遠い生活を送りやすいものです。アタルヤの後、ユダの王になったヨアシュがそうでした。彼は祭司エホヤダが教えた間はいつも主の目にかなうことを行いましたが、それはエホヤダが生きている間だけでした。彼はエホヤダの教えをむしろ窮屈に感じていたのではないでしょうか。それが証拠に神殿の修理は遅々として進みませんでしたし、エホヤダが130歳で死ぬと(第二歴代24章15節)、ユダのつかさたちが来て、王を伏し拝むようになったのです(第二歴代24章17節)。
 私たちのなかにも主の戒めを窮屈に感じる人がいます。それを「神は愛だから」ということばで逃げてしまう傾向があります。しかし、本当に神を愛しているなら、神の命令は重荷とはなりません(第一ヨハネ5章3節)。

 アラムの王ハザエルがガテやエルサレムを攻め、エフーの子エホアハズの時代にイスラエルが一時期アラムの支配を受けたのは、彼らの不信仰を主が怒られたからでしょう。しかし、そのエホアハズの願いにさえ、主は答えてくださいました。
 彼はこのとき、不信仰な者をも愛して、まことの神に立ち返ることを忍耐をもって願っておられる神の愛に、気がつくべきでした。しかし、彼は気づきませんでした。それゆえ神は再びイスラエルを打たれました。ただ、それでもなお、主は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のために、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、彼らから御顔をそむけられることはありませんでした。
 主は、なんと愛と忍耐に富んでおられることでしょうか。このような主であるからこそ、私たちもまた主の救いにあずからせてもらっているのだということを覚えなければなりません。

【土曜】 列王記第二14章~15章

 主を信じ、主を愛する人は、主の前に謙遜にならざるをえません。そうでない人は傲慢になります。あるいは、たとえ、主を信じ、主を愛する人であっても、一瞬、サタンの誘惑にあうと傲慢になります。ここに登場するユダの王アマツヤがそうでした。
 権力の座に着くことは、サタンの誘惑に陥りやすくします。人は目標に向かって努力しなければなりません。その努力が功を奏して目標が達成されると、自分の力で成功したかのように思います。これがサタンの誘惑です。
 アマツヤも次々に成功しました。彼が王位についたとき、彼の立場は決して盤石とは言えなかったのでしょう。父ヨアシュを打った者たちがいたからです。それでも彼は、そんななかで王国を強くして行きました。王国が強くなると、彼は父ヨアシュを打った家来たちを打ち殺しました。反アマツヤ勢力を取り除き、自分の立場を強固にするためであったでしょう。余勢をかってエドムに戦いを挑み、これにも勝利しました。歴代誌第二25章14節によりますと、彼はこの戦いでセイルの神々を持ち帰ってこれを拝み、それをとがめた預言者を威嚇しました。そればかりか、彼はさらに傲慢になり、イスラエルを挑発しました。
 しかし、結局、彼はイスラエルに破れ、最後は謀反によって殺されました。彼はその父と同じ運命をたどったのです。

 ユダの王がアマツヤであったとき、イスラエルではヤロブアムが王となりました。彼は失われた領土を回復し、イスラエルは一時の繁栄を取り戻しました。それは、イスラエルの悩みが非常に激しいのを、神がご覧になり、救われたからです。
 ヤロブアムのあと、イスラエルでは次々とクーデターが起こりました。ヤロブアムの子ゼカリヤはヤベシュの子シャルムによって殺され、シャルムはガディの子メナヘムによって殺され、メナヘムの子ペカフヤはレマルヤの子ペカに殺され、ペカはエラの子ホセアによって殺されました。イスラエルはホセアのとき、ついにアッシリヤによって滅ぼされました。彼らの崇拝した金の子牛は結局、彼らを救ってはくれませんでした。
 そして、ユダ王国もまた、少しずつ滅亡に向かって動き出しておりました。

 私たちは、神が私たちをどれほど愛してくださり、忍耐をもって導いてくださっているかを覚えるとともに、罪を決して見逃さず、さばかずにはおられないお方であるかも覚えなければならないと思います。そして、神の愛を裏切らないようにしたいと思います。