新約 第2週
マタイ福音書6章19節~11章1節

野沢 牧人

2007年1月1日 初版
2008年1月9日 第2版

【日曜】 マタイ福音書6章19節~7章12節

 「天の御国はその人のもの」(5章3節)と始められた山上の説教(5章1節~7章29節)のメインテーマは、「」です。天国に入れるか否かが、この「義」という基準にかかっているのです(5章20節)。この「義」について、主イエスはまず、再定義をされました。ユダヤ教の伝承における「義」について(5章17~48節)、宗教的善行における「義」について(6章1~18節)、いろいろな角度から述べてこられたのが、先週までのところでした。
 今日の箇所では、その再定義された「義」が「神の義」(6章33節)であり、それを「まず第一に求めなさい」と語られます。そして、7章1~6節をひとまずカッコに入れておいて、7節以降でも「求めなさい」と続きます。最後に12節で、これが「律法であり預言者」(7章12節)、つまり「聖書全体」であると宣言され、求めるべき「神の義」を一言でまとめます。

 「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい」(7章12節)
 黄金律(Golden rule)としてよく知られていますが、では、「自分にしてもらいたいこと」とは何でしょう?
 いろいろ思い浮かぶかもしれませんが、新改訳聖書で12節の「律法であり預言者」に付されている注2)を見ると、参照箇所として、マタイ22章40節、ローマ13章8~10節、ガラテヤ5章14節が挙がっています。3つとも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19章18節)という旧約聖書を引用した箇所であり、それが「律法であり預言者」、つまり「聖書全体」であると述べられています。たしかに、「自分にしてもらいたいこと」=「愛されること」、「愛する」=「自分にもしてほしいことをする」と理解すると合点がいきます。
 そして、黄金律を「人を愛する」と理解したとき、黄金律を守ることが「神を愛する」ことにつながります。主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」(ヨハネ15章12節)という主の戒めを守ることが、主を愛することである(同10節)とおっしゃいましたから。また、ヨハネの手紙でも、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(第一ヨハネ4章20節)と言われています。人を愛することが神を愛することであり、神を愛するあらわれとして人を愛するのです。両方が「律法であり預言者」なのです(マタイ22章37~40節)。

 しかし・・・と、ここまできて、ためらいを抱かれたかもしれません。「私には愛がないんです」「愛のない罪人です」と。もし「愛すること」が黄金律、つまり「神の義」であり、天国に入れるか否かの基準(5章20節)だとしたら、「天国には行けない、滅びるしかない」と。そうなんです、天国には行けないんです・・・、自分の力では、行ないでは。
 ここに、主イエスの「義」の再定義の究極があります。山上の説教の箇所では直接には語られていませんが、後に使徒パウロの書簡によって、その真理は明らかになります。すなわち、行ないにはよらず信仰によって、滅びるしかない私たちの代わりに十字架の上で滅びの代価を担って(贖って)くださった主イエスを信じる信仰によって「義」と認められ(ローマ3章20~22節)、天国の国籍要件(ピリピ3章20節)を満たしていただけるのです!
 しかも、信じた者に与えられる聖霊に導かれて歩むとき(ガラテヤ5章25節)、その結ぶ実(同22節)によって、愛の人に変えられていくのです。信仰のあらわれ(信仰告白)として、愛の行ないが伴っていくようになるのです(行ないは信仰告白であり、信仰と行ないは不可分一体です。ヤコブ2章22~26節)。

 このように聖書全体から見ると、「神の義」とは、神を愛し、人を愛するよう命ずる「行為規範」であるとともに、愛せない罪人をも主イエスの十字架の贖いを信じるゆえに義と認めてくださる(信仰義認)という、最後の審判における「裁判規範」でもあると言えます。そして、神の義を求めることは、信仰告白としての愛に生きることができるよう、聖霊を求めることであると言えます(ルカ11章13節)。

 私たちは、神の国と神の義とを第一に求めて生き、「幸いなるかな!」(5章3~12節)と言われて天国に凱旋したいものです。
 ゆめゆめ、神の国(神の主権的なご支配)を求めると言いながら、罪のない神のみが着座するさばき主の座を占めたり(7章1~5節)、世の富(6章24節)に心奪われ、富(マモンという貨幣の偶像)を第一にし、貧しい兄弟姉妹を捨て置くことなど(第一ヨハネ3章17節)ないように。むしろ、富を賢く用いることができますように。
 あなたの宝(6章21節)が地ではなく天にあり、あなたの光(6章23節)が金貨の光ではなくいのちの光でありますように。
 地上にある間は、パレスチナ平原の野生のアネモネのように(6章28~30節)、神がキリストによって装ってくださいますように(ガラテヤ3章27節)。

【月曜】 マタイ福音書7章13~29節

 山上の説教の最後、主イエスは、「天におられるわたしの父のみこころを行う者」(21節)、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者」(24節)になりなさい、すなわち、黄金律に要約される「神の義」に生き、天国に入りなさい(21節)と強く勧めて、しめくくりました。
 ただ、天国への道、いのちに至る門は、狭く、見出す者も稀です(14節)。妨げる者があるからです。貪欲な偽預言者たちです(15節)。主イエスは、妨げる者を実によって見分ける方法を教えてくださいました。良い実と悪い実。御霊の実(ガラテヤ5章22~23節)と、肉の実(同19~21節)を思い出します(信仰と行ないの不可分一体性は先述のとおり)。

 ところで、「さばいてはならない」(1~5節)と語られた主イエスは、もしかすると、悪い兄弟を見分ける以前に、まず自分自身、実を結んでいるかどうか吟味するように、という意味で見分け方を教えてくださったのかもしれません。「神の義」に生きることを妨げる最たる者は、実は己自身(の罪)とも言えるからです。
 人生の一瞬一瞬の選択のときに、「実を結ぶ『神の義』に生きる道はどちらか?」と、絶えず祈りつつ、聖霊に導かれて、いのちに至る狭き道を選び取りたいものです。そして、確かな土台である「岩」(24節)の上に人生を築いていき、洪水のときに(25節)ノアが神を信じて救われたように、私たちも最後の審判のときに「神の義」によって救われたいと願います。
 ※ 「岩」とは「キリスト」(第一コリント10章4節)であり、キリストの上に建てるとは、主イエスを「生ける神の御子キリスト」(マタイ16章16節)と信じ告白して生きることです。主イエスも、信じる者たちの群れである教会を、この「岩」(信仰告白)の上に建てます(同18節)。

 主イエスが語り終えたとき、群集が権威を覚えたのは(29節)、正直なところだと思います。モーセなどのことばを引用してその権威にあやかる律法学者たちとは違い、「天の父のみこころを行う」(21節)=「わたしのことばを行う」(24節)というように、天の父なる神とご自身とを重ね合わせて語る主イエスに、確かな神の子の権威を感じとったからでしょう。

【火曜】 マタイ福音書8章1~22節

 ツァラアト患者、外国人、女性。癒しの恵みにあずかった三者は、いずれも当時のユダヤ社会から疎外されていた存在でした。山上の説教で語られた「神の義」の行為規範としての黄金律は、愛すべき隣人を限定しません(ルカ10章29~37節)。それがどういうことかを、今度は実際に生きる姿によって見せてくださいました。「わたしの足跡に従いなさい」とおっしゃるように(ヨハネ13章15節)。

【1】 ツァラアトの病の癒し(1~4節)
 ツァラアト患者は、日本におけるかつての「らい病」と同様、社会的断絶のなかに生きていました。汚れた者として(レビ13章45~46節)、町の外に隔離され(民数5章1~4節)、人々が近づいて触れることも禁じられていました(レビ5章3節)。でも、主イエスはさわりました。彼を癒すために。社会的にも霊的にも、断絶からいのちへと移すために。

【2】 外国人の百人隊長のしもべの癒し(5~13節)
 百人隊長は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国において栄誉ある職務でしたが、ユダヤ人にとっては、外国人の家に行くこと自体汚れた行為であり(参照:使徒11章3節)、外国人も忌むべき存在でした。でも、主イエスは行こうとしました。外国人の家にも福音を届けるために。天国の門が開かれていることを明らかにするために。

【3】 ペテロの姑の癒し(14~17節)
 女性は当時、神殿の外庭までしか入れない存在であり、個人として尊重されていませんでした。また、ユダヤ伝承では、妻以外の女性にさわることを禁じており、さらに熱病の人に触れることも禁じていました。でも、主イエスはさわりました。女性にも癒しの恵みの預言が成就することを明らかにするために。

 律法の解釈によるユダヤ社会のツァラアト患者差別・外国人差別・女性差別について、その解釈の誤りを、主イエスは「神の義」に生きる姿をとおして示されました。地上の属性ではなく、みこころを行なう者、神の子・救い主の権威とことばを信じ、「主は必ずあわれんでくださる」と信じて、主イエスのみもとに来る者に、天国の食卓は備えられるのです(7章21節・8章11~12節)。主は、その人たちに、「わたしの心だ。きよくなれ」(3節)、「あなたの信じたとおりになるように」(13節)とおっしゃいます。

【水曜】 マタイ福音書8章23節~9章17節

 病の癒しに続いて、山上の説教で群集の感じた権威が、今度は、嵐を静め(8章23~27節)、悪霊を追い出し(8章28~34節)、罪を赦す(9章1~8節)権威としてあらわされます。

 弟子たちは、嵐を静めることのおできになる主権者、大自然のすべてを創造した主が同舟していたにもかかわらず、目の前の嵐に動転してしまいました。しかも、「助けてください」(25節)とすがりながら、まさか何とかなるとは思っていなかったのかもしれません。実際に助かってみると驚きます。
 「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」(27節)という弟子たちの驚嘆に、皮肉にも答えているのは悪霊です。「神の子」(29節)と。これは後に、主イエスから「幸いです」と言われるペテロの告白(16章16節)と同じです。悪霊は、主イエスの権威を、弟子たちよりも深く肌身に感じ、恐れていました。けれど最終的には、弟子たちは天国に入れられ、悪霊は滅びへと投げ込まれる、この違いはどこにあるのでしょうか?
 それは、「罪を赦す権威」(6節)を持っている主イエスが、こんな私の罪さえもお赦しくださる、と信じてみもとに来る点です。信仰をもって主イエスのみもとへと一歩を踏み出すかどうか、ただそれだけです。罪の赦しを信じてみもとに来るとき、主イエスはその信仰をご覧になって、「あなたの罪は赦された」(2節)と宣言してくださるのです。
 「悪霊の告白と同じ」と述べましたが、実は違う点があります。ペテロは、「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白しました。「あなたは神の子であり、そして私のキリスト(救い主)です」と。

 主イエスのみもとに行くのに早すぎることはありません。「もう少し風邪がよくなってから医者に行きます」というのが変なように、「もう少し罪人でない、マシな人間になってから主イエスのみもとに行きます」というのも、おかしいのです。「定年退職してから、子育てが一段落してから・・・」 いえいえ、今すぐ! なぜなら、罪はそれほどに重篤だからです。
 また、「私は医者であって、患者ではない」と言うパリサイ人のマネはしないでください。律法(聖書)を厳格に解釈し、敬虔に生きていると思っても(11~13節)、主イエスの再定義された「神の義」に生きなければ、天国には入れません。それは、聖霊に導かれて歩まなければ不可能です。その聖霊(新しいぶどう酒)は、新しく生まれた人(新しい皮袋)のうちに住まれ、新しく生まれるには、主イエスのみもとに来るしかないのです。

 ちなみに、9節の取税人マタイは、この福音書の著者と言われています。取税人は、ローマ帝国の徴税の手足をしていたことから売国奴扱いされ、また上前をはねる不正により罪人とみなされていました。その罪人すら救われることを、「驚くばかりの恵み(Amazing Grace)」を受けたことを、マタイは自分の隠したい過去をあえて明かすことにより証したのでしょう。この福音書を読む人が、主イエスのみもとに行かれますように、と願って。

【木曜】 マタイ福音書9章18~38節

 長血(婦人病)の女性(20~22節)も、開眼を求めた盲人(27~31節)も、信仰をもって主イエスに近づき、その信仰のとおりになりました(22・29節)。他方、死んで物言わぬ少女(18~19・23~26節)と、悪霊憑きの物言わぬ男性(32~34節)は、自力で来ることすらできませんでしたが、その人を想う周りの人の信仰によって(18・32節)、主イエスの癒しの恵みにあずかることができました。
 長血にしても(マルコ5章26節)、死にしても、失明にしても、悪霊による言語障害にしても、どれも医療の限界を超えていました。けれど、主イエスのみもとに来た人たちは、「このお方ならきっと癒してくださる」と、ふさにもすがる思いで信じました。その信仰に応えるかたちで、主イエスはお癒しくださいました。その主の愛の交流に、癒された人たちはどれほど慰められたことでしょう。そして人々は、主イエスの奇蹟を驚きとともに言い広めたのでした(26・31・33節)。主イエスが禁じたにもかかわらず(30節)・・・。

 ここで主イエスが噂を禁じたのは、「禁じられるほど言いたくなる人の習性を利用した」というより、素直に、みわざが誤って伝わることを防ぐためだったと考えられます。実際、パリサイ人たちは主イエスのことを悪霊マスターと捉え(34節)、そう言い広めていたでしょうから、群集に至っては・・・。軽率な噂の弊害を防ぐ必要性はあったと言えます。
 とはいえ、天国の福音を宣べ伝え、癒しのわざをしていく(35節)働き人は、確かに必要でした(38節)。主イエスは、派手な奇蹟の表面だけを伝えるクチコミをお用いにはなりませんでした。けれど他方、次のような働き人の求人には、非常に積極的でした(今も募集中!)。求める人材は、「主イエスは、人として来られた神の子、私の救い主」と告白し、主イエスの十字架の愛に応えて「神の義」の恵みに生きる人。
 私たちも、主イエスの祈りの課題(38節)を、ともに祈りたいと思います。

【金曜】 マタイ福音書10章1~23節

 マタイ福音書には5つの主イエスの説教が記されています。
【1】 山上の説教(5~7章)
【2】 宣教派遣説教(10章) ←今日の箇所
【3】 神の国に関する説教(13章)
【4】 教会に関する説教(18章)
【5】 終末に関する説教(24~25章)

 これまでの主イエスは直接活動されるスタイルでしたが、10章からは、ご自身の姿を目の当たりにしてきた弟子たちを、十二使徒に任命し、派遣されます。
 【ターゲット】 その派遣にあたり、まず、「今回はイスラエル(ユダヤ人)宣教です」と、ターゲット(ゴール)を明確にします(福音はすべての人に開かれているので〔使徒10章34~36節〕、5~6節は救いの恵みから外国人を排斥する趣旨ではありません)
 【メッセージ】 その上で、伝えるべきは「天の御国が近づいた」(7節)であると、主題を明確にします。主イエスと同じ宣教のメッセージです(4章17節)。
 【スタイル】 さらに、スタイルも主イエスと同じです。対価を求めず(8節)、物的必要を心配せずに(9~10節)、「天の父が養ってくださる」(6章26節)ことを信頼して行きなさい、と。これは、今まで見てきた主イエスの姿にならって、「イエス様ならどうする(WWJD=What Would Jesus Do?)」を胸に、「小さなイエス」として歩むよう命じられていると言えます。
 そして、このように、主イエスのように歩み、主イエスのわざを行なう権威(1節)を授かった使徒(主イエスの全権大使)ですから、彼らを受け入れる家には平安が(13節)、受け入れない家には「ソドムとゴモラ」(創世19章1~29節)よりも重い罰が(15節)、それぞれあるのです。

 迫害があることもあらかじめ告げられます。しかし、蛇のように聡くあって(16節)、むやみに殉教することなく(23節)、むしろ証の機会(18節)として生かすように。そのときには、鳩のように素直に、聖霊が話すべきことばを教えてくださるのを待ち望みなさい(20節)、と述べられます。

 ところで、なぜ「主イエスの名」(22節)は、迫害を引き起こすのでしょうか?「神の義」に生き、隣人を愛していれば、好意を抱かれこそすれ、憎まれることなどないはずですが・・・。
 それは、日曜日の箇所で見ましたが、「神の義」は、己が愛のない罪人であることをも示すからだと考えます。「神の義」に生き、「神の義」を宣べ伝えることは、人の罪をもあぶりだし、「そのままでは天国に行けない」と断罪することになるのです。天国に入るには、へりくだって主イエスの十字架の贖いを受け入れるしかない。しかし、へりくだれない。だから、罪を突きつけるキリスト者を憎み迫害することになるのでしょう。

 最後にもう1つ問います。では、ここまで周りの親しい人すらも敵に回すかもしれない迫害がある(21節)と告げられても、なお「主イエスの名」を信じ受け入れ、最後まで耐え忍ぶ者(22節)とは、いったい誰でしょうか?

【土曜】 マタイ福音書10章24節~11章1節

 迫害の心得から、弟子の心得へと、主イエスの話は進みます。
 「人々が、わたしをベルゼブル(悪霊のかしらサタン)と蔑称するくらいなら(9章34節参照)、あなたがたは何と罵られるでしょう。そんなことでビビッていてはキリがありませんよ(24~26節)。人間のできることなんて、せいぜい肉体を殺すぐらいです。たましいもからだも、ともにゲヘナ(永遠の刑罰がもたらされる場所)に投げ込む権能をお持ちの父(神)を敵に回すのと、どちらが合理的か、冷静に考えなさい(28・32~33節)。それに、一羽の雀が地に落ちるか否かも、髪の毛一筋抜け落ちるか否かも、すべて父のあずかり知らないことではありません。であれば、わたしを信じる者が、父の知らない間に殺されることなど、あるでしょうか?あなたがたのいのちは、すべて父の最善の導きのうちにあります。だから安心しなさい(29~31節)。そして、わたしのゼミで学んだことを、今度はあなたがたが出て行って皆に宣べ伝えなさい(27節)。たとえ、それによって家族から憎まれることになったとしても(22・34~37節)、わたしの名を否んではなりませんよ。十字架を負ってわたしについて来た者に(38~39節)、父は豊かな報いをくださいます。わたしの弟子を受け入れる者にも、同じように報います(40~42節)」
 今日の箇所は難解な部分が多かったので、解釈を踏まえて言い替えてみました。

 ところで、もちろん主イエスは、家族関係をメチャクチャにするために来られたわけではありません(34~37節)。キリストは平和の君(イザヤ9章6節)であり、「神を愛し、人を愛しなさい」と命じられました。また、「父母を敬え」という律法も、廃棄されてはいません(エペソ6章1~4節、第一テモテ5章8節)。
 ただ、真の意味で人を愛することは、神を愛することのなかで初めて成立するものです。「神を愛するあらわれとして人を愛し、人を愛することによって神を愛する」という原則のもとでは、前提としての「神を愛する」が抜けると、「人を愛する」もありえなくなります。神から離れての愛は、実はサタンと罪とを愛する隠れ蓑になっているのです。「サタンを愛し、人を愛する」に変質してしまっているのです。その結末は家族もろともゲヘナです。
 だから、真に家族を愛するのなら、まず「神を愛する」を第一にすべき、と言えます。たとえ、一時的に家族と対立することになったとしても。最終的には、主に従う者に与えられる豊かな報いとして、必ず平和をくださると信じます。「あなたの家族も救われます」(使徒16章31節)という聖書の約束がありますから。

 最後にもう1つ、お聞きします。皆さんは大丈夫ですか?主イエスを人の前で認める者(32節)ですか?
 「大丈夫!」 ・・・そうですか、それはよかった。
 しかし、そういえば昔、こんなことを言っていた人がいます。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません」(26章35節)と。その人は結局、鶏が鳴く前に3度も「そんな人は知らない」と、しまいには呪いをかけて誓ってしまいました(26章74節)。
 自分の十字架(38節)を自分の力で負おうとしても、負えるものではない、と思い知らされます。「神の義」を祈り求める者に与えられる聖霊によらなければ。
 と同時に、主は、否んでしまったことを心から悔いる人に、再び歩むことができるよう、手をさしのべてくださるお方でもあることを、後の箇所から知ります。そのときに主が問われるのは、ただ一つ、「あなたはわたしを愛しますか」(ヨハネ21章17節)でした。十字架を負える能力ではありません。
 主に献身し、お従いするときに、主が問われるのは、へりくだって(42節の新改訳注*)、十字架の上であらわされた主のご愛に、応えるか否かなのです。

 それでは、改めてお聞きします。「あなたはわたしを愛しますか?」(ヨハネ21章17節)

参考文献

  • 中澤啓介『マタイの福音書註解 上・中』(いのちのことば社、2001年・2002年)
  • 増田誉雄「マタイの福音書」『新聖書注解・新約1』(いのちのことば社、1973年)
  • 伊藤明生「山上の説教の理解をめぐって」『キリストと世界』(東京基督教大学、1991年)
  • 佐布正義「義」『新聖書辞典』(いのちのことば社、1985年)
  • 富井悠夫「義」『新キリスト教辞典』(いのちのことば社、1991年)
  • 松田一男「義認」『新聖書辞典』(いのちのことば社、1985年)
  • 橋本昭夫「義認」『新キリスト教辞典』(いのちのことば社、1991年)